打製石器を工夫した日本の旧石器時代!氷期が終わる1万年前に日本列島が形成

約13,000 - 12,000年前の黒曜石でできた細石刃

前回の歴史クイズ(復習)→第8章Lesson2

岩宿遺跡によって確認された日本の旧石器時代。当時の人々は主に鋭い打製石器を使い、狩りや動物の解体など、使いみちに応じた石器を工夫していきました。

1万5000年前ごろの気温上昇によって、大型動物が好む草原が減り、乱獲によって絶滅していきました。氷期が終わり、海面が上がった1万年前、ほぼ今日のような日本列島になりました。その後、大陸から新しくわたってきた人々も加わり、長い年月の間に、現在の日本人が形づくられました。

岩宿遺跡をはじめとする日本の旧石器時代の遺跡をたどり、日本列島と日本人の祖先のおこりを学んでいきましょう。

【第8章Lesson3】中学歴史要点クイズ問題スタートです!

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使い道に応じた打製石器をつくった旧石器時代

人々の暮らしを支えていた道具は、主に鋭い( ① )でした。狩りに使う槍(やり)の先につける、動物の解体や木・骨の加工に使う、木の実のからを割るなど、使いみちに応じた石器が工夫されていきました。これが、日本の( ② )です。

(  )のことばを答えてみよう!

ヒント
  1. 打ち欠いて製造した石器です。
  2. 無土器時代とも、先土器時代とも言いますが、石器について言えば、◯石器時代です。
解答
1.打製石器
2.旧石器時代

 

解説

❶ 打製石器

黒曜石(こくようせき)でつくられた槍先形の打製石器が、群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡から発見されました。これによって日本にも土器を使わない旧石器時代があったことが証明されました。

1万カ所を越える旧石器時代の遺跡が確認されていますが、ナイフ形石器文化、細石器文化に分けることができます。

約13,000 - 12,000年前の黒曜石でできた細石刃
佐賀県で発掘された13,000 – 12,000年前の黒曜石でできた細石器の刃(出典:Wikipedia

ナイフ形石器
ヨーロッパで発掘されたナイフ形石器(出典:Wikipedia

石の鋭い側縁の一部をナイフの刃のように残し、ほかの側縁を鈍くつぶす加工をして、ナイフ形に仕上げた打製石器。

❷ 旧石器時代

打製石器を使い、移動しながら狩猟・採集の生活をしていた長い時代を旧石器時代と言います。日本の旧石器時代で確認されている時期は、世界的には後期旧石器時代と言われる3万5千年前以降の時代です。

2000年に「旧石器発掘捏造(ねつぞう)事件」が発覚しました。その結果、13万年以前の前期・その間の中期にあったとされていた日本の遺跡のすべてがその価値を否定されることになりました。「神の手」とおだてられ、打製石器を埋め込んでから「発掘」した調査団長の愚かな行為が多くの人の夢と努力を打ち壊したのです。

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気温上昇で海面が上がり、1万年前には日本列島が形成される。

やがて、1万5000年前ごろの気温の急上昇によって、大型動物が好む( ① )が減り、乱獲によって絶滅していきました。氷期が終わり海面が上がったおよそ( ② )前、ほぼ今日のような( ③ )になりました。その後、大陸から新しくわたってきた人々も加わり、長い年月の間に、現在の日本人が形づくられました。

(  )のことばを答えてみよう!

ヒント
  1. ナウマンゾウもオオツノジカも草食動物です。だからこんな場所を好むのです。
  2. 今から8,000年ほど前になりますね。
解答
1.草原(平原)
2.1万年(前)
3.日本列島

 

解説

❶ 草原

1万5000年前の気温の急上昇によって、大型動物が好む平原が減り、さらに人間による乱獲によって大型動物は絶滅していきました。

現代の動物園のゾウには1日90kgほどの草を3食に分けて与えますが、氷期に生きたマンモスの食事時間は1日20時間食べ続けたと言われています。

やがて、気温上昇によって草原には樹々が生え、湿原や冷帯草原が減少し、食生活の環境が難しくなっていきました。

❷ 1万年(前)

日本が大陸と地続きだった氷期、大型動物を追って大陸から新人が石器を携えて日本列島にやってきたころが、日本の旧石器時代です。

氷期の終わりごろの1万6000年前には気温が上がりだし、日本を含む東アジアで生活が変化し、土器も発明されていきました。

氷期が終わって日本列島がほぼ現在の形になったのは、1万年前です。

❸ 日本列島(Japanese archipelago)

日本列島はユーラシア大陸に近く、太平洋の北西にある弓形の列島です。北海道、本州、四国、九州の4島とその周辺の6800あまりの島々、千島列島、南西諸島をさします。北海道から沖縄県までの距離は3000km、国土面積は38万㎢です。

陸地面積の75%が山地で本州の中央部には3000m級の高い山々が連なっています。大部分は温暖湿潤気候に属し、梅雨や台風、また季節風の影響で日本海側では大雪が降ります。

列島の太平洋側には南海トラフなどの深い海溝があり、火山活動も活発で、地殻変動、造山活動が盛んな活動地域です。周囲を海に囲まれた日本列島は南北に長く、自然災害の被害をつねに受けながら、四季の変化に富む地域だと言えます。

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岩宿遺跡で出土した槍先形の打製石器が旧石器時代のものだと判断された理由とは?

深掘りテーマ

打製石器は土器も使われる新石器時代でも使われていました。旧石器時代は、無土器時代とか先土器時代とも言うように、未だ土器を知らない時代のことです。

しかも、火山灰の降り積もった赤土の関東ローム層からは土器はもとより石器も出土されておらず、人類の文化は何もないと言われていた時代の地層だったのです。

槍先型の尖頭石器

相澤忠洋記念館-槍先型の尖頭石器(長さ6.9cm)
岩宿遺跡で発見された黒曜石の打製石器
(出典;日本史ゆるり)

相沢忠洋(あいざわただひろ)さんの著書「『岩宿』の発見―幻の旧石器を求めて」(講談社文庫)から以下、引用します。

「山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。それを目の前に見たとき、私は危うく声をだすところだった。じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。『ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土のなかに・・・』私は、その石を手にしておどりあがった。(略)

もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。」


相沢さんは、火山灰の堆積した関東ローム層の赤土が出れば「地山が出た」と言われ、その時代には何もないと言われていた赤土の中から素晴らしい黒曜石の打製石器を発見したことで、日本に旧石器時代の文化があったことを証明することになったのです。

1949(昭和24)年のことでした。現在までに日本列島全体で1万カ所を超える後期旧石器時代の遺跡が確認されています。

史跡・岩宿遺跡A地点
史跡・岩宿遺跡A地点(出典:Wikipedia

史跡・岩宿遺跡B地点の岩宿ドーム
史跡・岩宿遺跡B地点の岩宿ドーム(出典:Wikipedia

コーヒーブレーク:『岩宿』を発見した相沢忠洋さんの人生

コーヒーブレイク

相沢忠洋さんが19歳のとき、太平洋戦争が終わりました。

戦後は故郷の赤城山麓で村々をまわって小間物商いをしていましたが、楽しみは、祖先の生活の跡を訪ね歩き、土の中に見出した石器や土器片の遺物からの無言の語りかけに耳を澄まし、「いつごろから人間が住みつき、そのあけぼのの時代はどんなであったろうか、と考えるようになった」ことだと言います。

相澤忠洋
(写真は相澤忠洋記念館より)

相沢さんの人生は自分の好きな古代のロマンを追い求めるものでした。

比高はわずか50mほどですが眺望の良い山寺山の山頂から扇状地の広がる水田見下ろしたとき、相沢さんは、「ここに立っていると、大自然のなかの私があまりにも小さく感じられ、遠い大むかしにここに住んだ人びとも、きっと朝な夕なにここに立って、大自然の雄大さに見とれ、また大自然の神秘的なおそろしさにおののいたこともあったにちがいない。」と書いています。

そして、岩宿で発見した黒曜石の尖頭石器を洗って手に取った時の思いを、「空にかざして太陽にすかしてみると、じつにきれいにすきとおり、中心部に白雲のようなすじが入っている。私にはその美しさが神秘的に思えるのだった」と書いています。

こうして、私たち日本人の祖先はこの地に住み、やがて新しい文化を築いていくのですね。

スゥ〜(と息を吸って)〜ヴヒヒヒ〜ン(とロバの啼き声)

次回の歴史クイズ→第9章Lesson1
※順番に読み進めると知識が深まります。

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