前回の歴史クイズ(復習)→第9章Lesson2
1万2~3千年前に始まり、それから1万年間の縄文時代、人々は、日当たりのよい丘などにむらをつくりました。村には共同の作業や祭りをするための広場があり、周りに数軒の竪穴式住居が並んでいました。住居は深く掘り下げた床に、柱を立て、草や木の枝で屋根をふいてつくりました。
村人は、狩りや採集の仕事を共同で行い、とれたものを分け合いました。貧富の差はまだありませんでした。
当時の人々は、土偶と呼ばれる土の人形をつくりました。ほとんどが女性像であり、妊娠している姿も多くあります。また、抜歯の習慣があり、死者の多くが屈葬されており、自然の力をおそれ、まじないで願いをかなえようとしていたと考えられています。
縄文時代の人々の生活を三内丸山遺跡から調べていきましょう。
【第9章Lesson3】中学歴史要点クイズ問題スタートです!
目次
人々は丘にむらを作り竪穴式住居に住んだ!貧富の差はなく、土偶や屈葬の風習があった
村人は、狩りや採集の仕事を共同で行い、とれたものを分け合いました。( ② )はまだありませんでした。
( )のことばを答えてみよう!
- ◯◯式住居です。
- 貧しい者と富む者との差です。
❶ 竪穴式住居(竪穴住居)
地面を円形や方形に数十cm掘りくぼめ、柱を立てた家の骨組みの上に、藁(わら)や土で屋根をかけた竪穴住居に住みました。住居の中央には炉をおいて炊事をともにする小家族の住まいと考えられます。
集落は、日当たりがよく、水の得やすい場所にある台地に作られました。ひとつのむらは4〜6戸ほどの世帯からなる20〜30人ほどの集団であったと考えられますが、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡のように、大型の集合住居のある集落もありました。
竪穴式住居は、縄文時代から弥生時代、古墳時代に至るまで広く作られていました。
竪穴式住居(復元、吉野ヶ里遺跡)出典:Wikipedia
❷ 貧富の差
縄文時代には気候の温暖化で小動物のほか植物性食料が増え、人々はクリ・トチ・ドングリなどの木の実を採取するだけでなく、クリ林を管理して増やし、ヤマイモや豆類の栽培もおこなっていきました。
食料が安定してとれるようになり、人々は定住します。集団には統率者はいましたが、身分の上下関係や貧富の差はまだなかったと考えられています。
人々は集団で力をあわせて働き、生活を守りました。男性は狩猟や石器づくり、女性は木の実の採集や土器づくりに励んでいたことでしょう。
むらの人々は、ほかのむらと通婚し、また、黒曜石(こくようせき)やひすいの分布状況から、かなり遠方のむらとも交易していくようになっていったことがわかります。
黒曜石(出典:Wikipedia)
土偶を作り、抜歯(ばっし)や屈葬(くっそう)をおこなった。
また、( ② )の習慣があり、死者の多くが( ③ )されており、自然の力をおそれ、まじないで願いをかなえようとしていたと考えられています。
( )のことばを答えてみよう!
- 土で作った偶像です。
- 歯を抜くという成人となる通過儀礼です。
- 体を屈折させて埋葬するのです。
❶ 土偶(どぐう)
縄文時代の人々は、あらゆる自然物や自然現象に霊魂が宿っているという信仰(アニミズムanimism)をもっていました。土偶には妊娠した女性をかたどったものが多くあります。
これは豊穣の祈り、また、いのちが再生し生まれてくるという祈りがこめられていたと考えられます。縄文時代の後期〜晩期にかけては、遮光機土偶(しゃこうきどぐう)など、顔を隠した独特の面をもつ土偶が発見されています。
遮光器土偶・1886年(明治19年)青森県亀ヶ岡遺跡出土(出典:Wikipedia)
❷ 抜歯(ばっし)
抜歯は、成人の健康な歯を抜く風習です。成人になるための通過儀礼のひとつとして儀式の際におこなわれたものと考えられています。
また、歯をフォーク状に削ったものも発見されています。集団としての統制がきびしかったことをしめしています。
❸ 屈葬(くっそう)
縄文時代は死者の体を強く折り曲げて埋葬する屈葬が一般的でした。腰に腰飾りをつけていたものも発見されています。
死者の霊魂が生きている者に災いをおよぼすことをおそれたためであると考えられます。
屈葬(出典:Wikipedia)
青森県の三内丸山遺跡について調べてみよう
三内丸山(さんないまるやま)遺跡は日本最大級の縄文集落跡で、今から約5900年前~4200年前の縄文時代、長期間にわたって定住生活が営まれていました。野山にも海にも食べ物がたくさんあったのです。
1992年からの発掘調査で、竪穴住居のほかに大型の竪穴建物や食料の貯蔵穴、お墓、ゴミ捨て場など、東京ドーム9個分となる大きな集落全体の様子がわかってきました。多くの土器・石器の他に、土偶やヒスイなど祭儀に関係する遺物もたくさん出土されました。
生活は、木の実や山菜を採集するだけでなく、ゴボウや豆のほか、クリを栽培していました。また、近くの陸奥湾は穏やかな内湾で、マダイ・ブリ・サバ・ヒラメ・ニシン・サメ類などが多く食べられていました。
川が海にそそぐ河口の丘に人々は村を作り、海と森の恵みを受けて安定した生活をおくっていたことがわかります。果実酒も作っていたのですよ。
子どもは亡くなると、穴を開け打ち欠いた土器に入れられ、住居の近くに埋葬されました。土器の中から丸い石が出土することが多く、当時の埋葬の習慣だと考えられます。また三内丸山遺跡では、屈葬ではなく成人は手足を伸ばして埋葬していたようです。
大型の竪穴建物の中には、長さ32m、幅10mのものもありました。集落の中央付近にあることから集会所や共同作業として用いられたと考えられます。さらに、直径1mものクリの木を6本立てた大型高床建物の跡も発見されています。
2000年に国の特別史跡に指定され、今、これら多くの建物が復元展示されています。
三内丸山遺跡(出典:Wikipedia)
土偶はなんのために作られたのだろうか?
縄文時代の習俗を引き継いでいると言われるアイヌ民族は、役目を終えた物はどこかを傷つけてから捨てたと言われます。それは、世のすべてのものに霊魂があり、この世の衣装(体)を脱がすことで、霊魂は「あの世」に行けるという世界観から発した習俗です。
今までに出土している土偶2万点のほとんどは壊されてから埋められています。
出土している場所が、墓や貝塚、また祖先信仰の盛土であることからも、土偶には死後の魂の再生を祈った役割があったのだろうと考えられますね。
土偶 長野県茅野市棚畑遺跡出土/縄文のビーナス(出典:Wikipedia)
次回の歴史クイズ→第10章Lesson1
※順番に読み進めると知識が深まります。
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