大陸から稲作が九州に伝わった弥生時代!石包丁とは何?

北澤篤史
北澤篤史

前章の歴史クイズ(復習)→【第9章】縄文時代―日本の新石器時代

水稲農耕による食料生産が広がり、弥生土器が作られた時代を言います。前4世紀〜紀元3世紀中ごろを弥生(やよい)時代と言いますが、近年、弥生時代は前10世紀に始まるとの見解が出されています。

前4世紀、稲作は中国の長江流域や朝鮮半島南部から渡来して来た人々により九州北部に伝えられました。前3世紀には稲作は気候温暖な西日本に定着し、やがて東北地方にまで広がりました。水田は湿地だけでなく、池や川の水を引いて作られるようになり、ムラも現れました。

人々は木のすきやくわで水田を耕し、石包丁を使って稲の穂をつみ取って収穫しました。

【第10章Lesson1】中学歴史要点クイズ問題スタートです!

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前4世紀、中国・朝鮮から九州に稲作が伝わる

中国に統一国家が誕生しつつあった( ① )ごろ、九州に、( ② )を行い、金属の道具を使う文化が現れました。稲作は中国の( ③ )流域や朝鮮半島南部から渡来して来た人々により伝えられました。前3世紀、稲作は気候温暖な西日本に定着し、やがて東北地方にまで広がりました。

(  )のことばを答えてみよう!

ヒント
  1. 紀元前300年代は何世紀ですか?
  2. 水稲農耕のことです。漢字2文字で書いてみましょう。
  3. 中国南部を流れる大河です。揚子江とも呼びます。
解答
1.前4世紀
2.稲作
3.長江

 

解説

❶ 弥生時代のはじまりはいつから?

およそ2500年前と想定される縄文時代の終わり頃(縄文晩期)、朝鮮半島に近い九州北部で水田による米づくりが開始されました。佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡や、福岡県の板付(いたづけ)遺跡がそれです。

板付遺跡の環濠集落
板付遺跡の環濠集落(出典:Wikipedia

弥生時代は紀元前4世紀ごろからと言われていますが、縄文土器を使用していた紀元前5世紀のこの時代を弥生時代の早期ととらえる意見もありました。

ただ、近年、国立歴史民俗博物館による土器に付着した米の放射線炭素年代測定(2003年)により、弥生時代は前10世紀に始まるとの見解が出されています。

❷ 稲作が西日本に定着!

紀元前3世紀には、北海道と沖縄など南西諸島を除く日本列島の大部分の地域は、食料採取の段階から稲作を中心として食料生産の時代に入っていきました。

前4世紀から紀元3世紀中頃までの時期を弥生時代と呼んでいます。九州北部に伝わった稲作は、気候温暖な西日本に定着し、やがて東北地方にまで広がっていきます。

湿地にはじまった稲作は、川から水を引く灌漑によって、平野に広がり、大きなムラも作られるようになっていきました。

❸ 長江流域で稲作技術が発達

長江下流域で稲作が始まり農耕社会が成立したのは前六千年前後になります。中国では春秋時代中期(前600年ごろ)以降、鉄製農具の使用や牛に棃(すき)を引かせる牛耕が始まり農業生産力が高まりました。

アワやキビなど畑作中心の黄河流域に比べ、雨量の多い長江流域では収穫量の多い稲作が広がりました。3〜4世紀には戦乱の続く華北から人口が流入し、長江中・下流域では農地の開発が一層すすみました。

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水田は湿地だけでなく、平野を灌漑して広がり石包丁など道具が発達!

初め、水田は( ① )に作られましたが、しだいに、池や川の水を引いて灌漑した平野にも作られるようになり、大きな( ② )も現れました。人々は木のすきやくわで水田を耕し、磨製石器の( ③ )を使って穂を摘み取って収穫しました。

(  )のことばを答えてみよう!

ヒント
  1. 水気を含み、土も柔らかい土地です。
  2. 人が集まり、定住して作ります。
  3. 刃物状の磨製石器です。
解答
1.湿地
2.ムラ(村)
3.石包丁

 

解説

❶ 湿地から平野に広がる稲作

水気を含み、土も柔らかい土地で栽培されはじめた稲作は、生産性は低いものでした。やがて、池や川から水を引き、板で囲った灌漑(かんがい)・排水(はいすい)水路を備えて土壌の栄養分を補える本格的な水田が作られていきました。一辺が数m程度の小区画のものが多く見られますが、初期のころから田植えも始まっていました。

❷ 朝鮮半島から渡来した人々とともにムラが築かれる

九州北部や中国・近畿地方で発見されている弥生人骨の中には、縄文人骨より背が高く、面長で起伏の少ない顔のものがみられます。

弥生人と弥生犬の復元模型
弥生人と弥生犬の復元模型(出典:Wikipedia

縄文文化の特徴である土器づくりや打製石器・竪穴住居とともに、中国や朝鮮半島から伝えられた水稲農耕や金属器生産の新しい技術がともに見られるのが弥生文化の特色です。

農耕社会を形成していた朝鮮半島から渡来した人々は数多くはありませんが、縄文人とともに弥生文化を生み出し、ムラを形成していったと考えられます。

❸ 穂を摘む磨製石器の石包丁

稲穂の実を摘む必需品が石包丁です。手のひらにおさまる半月形・長方形の板状の磨製石器(打製石器のものもあります)で、片面を鈍い刃のようにして、1つか2つの穴が開いています。

石包丁
石包丁(喜志遺跡出土喜志遺跡出土)

この穴に紐を通し指にひっかけたり、手の甲に巻きつけて落下を防ぎ、穂を摘んでいたものと考えられます。

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縄文時代と比べて弥生時代のくらしはどのように変わったの?

深掘りテーマ

三内丸山遺跡から縄文時代でもクリの木の栽培生産がはじまっていたことがわかりますが、日本列島で1万年余りも続いていた縄文文化の時代の生活は、狩猟と採集を基本としたものでした。

弥生時代の特徴は、水稲農耕を基礎とする農耕社会の成立です。灌漑・排水の工事から、収穫、保管、脱穀に至るまで、人々の共同作業が必要でした。

また、指図する指導者が必要とされていきます。農具の先に鉄の刃が使用され、湿田だけでなく乾田の開発もすすめられ、生産性もあがっていきました。

木製農具の製作には磨製石器が用いられましたが、やがて、鉄製の工具が使われるようになり、弥生時代後期には鉄器が普及しました。

弥生人と縄文人の人骨を比べてみよう!

縄文人は背が低く、丸顔で彫りが深く、二重まぶたで鼻が大きく、唇が厚い。渡来してきた弥生人は、長身で面長、彫りが浅く一重まぶた、鼻は小さく唇も薄い、という特徴がみられます。現代の私たちは、これらが入り混じった特徴を備えているのですね。

次回の歴史クイズ→第10章Lesson2
※順番に読み進めると知識が深まります。

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