前回の歴史クイズ(復習)→第7章Lesson3
3世紀の初め、中国は魏・呉・蜀の三国に分かれましたが、中国と朝鮮、当時、倭(わ)とよばれた日本との交流は続きました。
朝鮮北部から中国北東部にまたがる地域に、漢は大軍を送って支配しました。
やがて、高句麗(こうくり)が勢力を強め、中国の支配を打ち破り、朝鮮南部でも百済(くだら)と新羅(しらぎ)が小国を統一しました。
朝鮮の三国は、政治の制度や農業技術、学問、仏教などを発展させ、日本にも伝えました。
中国や朝鮮については、日本の歴史の進展とともに繰り返し取り上げていきます。今回は名前と位置を確認していきましょう。
【第7章Lesson4】中学歴史要点クイズ問題スタートです!
目次
魏・呉・蜀の三国時代に倭との交流も!
朝鮮半島では前13世紀には青銅器が、前5世紀には鉄器が中国から伝わりました。前2世紀末、漢による( ③ )ら4郡が設置され、本格的な国家の形成が進んでいきました。
( )のことばを答えてみよう!
- 有名な大河小説「三国志」に出てくる3国です。ひらがなで書けば「ぎ・ご・しょく」です。さて、漢字で書けますか?
- 日本は昔、大和(やまと)とも名乗りました。この1文字もそのように読むことができます。ひらがなでは「わ」です。さて、漢字で書けますか?
- lesson3の復習です。「◯浪郡」でしたね。楽しく覚えてみましょう!
❶ 中国の王朝「魏・呉・蜀」
紀元25年、光武帝によって中国が再統一された後漢でしたが、2世紀末の「黄巾の乱」により、宦官(かんがん)たちの支配する漢王朝がゆらぎ、220年、後漢も滅亡します。そのあと280年に晋(しん)が中国を統一するまでを「三国時代」と呼びます。
初代皇帝は、魏が曹丕(そうひ)、蜀(蜀漢)は劉備(りゅうび)、呉は孫権(そんけん)です。
中国の三国時代、三国の勢力圏とその地方行政区分「青が魏、赤が呉、緑が蜀」(出典:Wikipedia)
中国で陳寿が著した「三国志」や、明の時代に書かれた「三国志演義」が詳しい歴史書ですが、日本の作家、吉川英治の長編小説「三国志」も興味深いですね。この時期は、日本では卑弥呼が邪馬台国を統治していた頃で、中国100年間の政治の激動を描いています。
漢の末裔、劉備玄徳(りゅうびげんとく)は、三国志演義や吉村氏の「三国志」では中心人物として登場します。
後漢の王朝も末期になり、政治の腐敗が進む中、黄色い頭巾をかぶった黄巾(こうきん)賊が各地にはびこり、民衆は喘ぎ苦しんでいました。
あいつぐ戦乱、農民の離農、悪天候や疫病などにより、中国大陸の人口減少と過疎地の拡大は著しいものがありました。(後漢末の5600万人が、三国時代には800万人になるとの統計もあります)。
三国時代、魏では2世紀末、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる屯田制を行いました。
また、官僚の役職制を整えて貴族が形成されました。呉や蜀でも貨幣経済が進展し、蜀では、蜀科とよばれる法制度を整えました。
蜀の初代皇帝、劉備玄徳。(出典:Wikipedia)
❷ 倭(わ)
紀元前の時期から、中国各王朝や朝鮮の国々は、海を隔てた島国の地域を倭とよび、そこに住む人々を倭人と呼んでいました。「日本」という言い方をする前、日本列島の政治勢力も倭とか倭国(わこく)と自称していました。
魏の歴史を書いた「魏志」のなかに、「倭人伝」と呼ばれる箇所があります。詳しくは邪馬台国を学ぶところで紹介していきましょう。
❸ 楽浪郡(らくろうぐん)
これは、lesson3で学習しました。
前108年、漢の武帝が郡県制をしいて直接統治を行ったときに、楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡の4郡をおきました。
後漢の時代にも、楽浪郡は朝鮮半島における漢の支配拠点として中国文化を日本に伝えていきました。
朝鮮北部には高句麗が、南部には百済と新羅が建国
( )のことばを答えてみよう!
- コグリョとも読みます。のち10世紀になると高麗(こうらい)という国が朝鮮半島を統一しまが、よく似た国名ですね。
- 「ペクチェ」とか「ひゃくさい」とも読みます。朝鮮半島では日本と最も深い関係の国で、◯◯観音という仏像が奈良の法隆寺にあります。
- シンラとも読みます。
朝鮮半島に建国した三国
高句麗・百済・新羅の三国が鼎立した前1世紀から紀元7世紀の時代を朝鮮の「三国時代」といいます。今は、韓国語で「コグリョ・ペクチェ・シンラ」と読むことが多いようです。
この三国はたがいに対抗し、ときには同盟関係を結びながら、中国王朝に朝貢(貢ぎ物を差し出して、相手の権威を認める)の使節を送り、官職や称号を得て従属的関係を結び、勢力を広げようとしました。
中国からは儒教や漢文の文化を取り入れ上流階級に広がります。また、仏教は国家の保護をうけて繁栄しました。
三国時代(朝鮮半島)5世紀末(出典:Wikipedia)高句麗・百済・新羅
❶ 高句麗(コグリョ・こうくり)
❷ 百済(ペクチェ・くだら)
4世紀には百済が朝鮮半島の南半分を支配しました。百済は日本との関係が深く、5世紀になると百済・伽耶と日本とが結んで高句麗と対抗することも起こりました。
法隆寺の百済観音(くだらかんのん)像(出典:Wikipedia)
❸ 新羅(シルラ・しらぎ)
好太王(広開土王)碑文には何が書いてありますか?
5世紀初めに建てられた高句麗の好太王(広開土王)の石碑には、「新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした」(韓国学会の定説解釈)とか、「399年に、多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので5万の大軍を派遣して新羅を救援したと記されています。
中国の「三国史記」や日本の「日本書紀」によると、高句麗が日本海を渡ったことはありません。
好太王碑の碑文の墨水廓填本 1882年頃作成、東京国立博物館蔵(出典:Wikipedia)
好太王碑には、倭が高句麗と交戦したことがしるされています。高句麗の騎馬軍団との戦いは、乗馬の風習がなかった倭人たちにも騎馬技術を学ばせ、5世紀の日本の古墳には、馬具が副葬されるようになりました。
好太王碑(広開土王碑)(出典:Wikipedia)
桃源郷(とうげんきょう)って、ユートピア社会?
「桃源郷」という言葉を聞いたことはありませんか?魏や晋の時代に生きた陶潜(陶淵明)の詩「桃花源記」から生まれたものです。
人の住まう夢のような世界ですが、目的をもって探しても発見できず、また、再び訪れることはできない場所です。安らぎを求める人間の心の中の世界とも言えます。
H.G.ウエルズの小説「塀についたドア」はじめ、いろんな文学作品にも繰り返しこのテーマは登場します。バーネットの小説「秘密の花園」も起点はこうした心の花園かもしれませんね。
イギリスの思想家トマス・モアの小説「ユートピア」は現実には存在しない理想社会を描いたもので、空想的社会主義とも言われましたが、心の中ではなく現実の社会についての考察となっています。
ここまで書いてくると、J.スウィフトの「ガリヴァー旅行記」も紹介したくなります。そこにある「小人国・大人国・天空の国ラピュタ」が有名ですが、最後の清浄な馬の治める国「フウイヌム」も味わい深いですよ。
スゥ〜(と息を吸って)〜ヴヒヒヒ〜ン(ロバの啼き声)
次回の歴史クイズ→第8章Lesson1
※順番に読み進めると知識が深まります。
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