前回の歴史クイズ(復習)→第4章Lesson4
前1世紀、第三次奴隷戦争(スパルタクスの反乱)があり、1世紀、キリスト教が起こりました。3世紀、軍人皇帝が乱立してローマ帝国は混乱し、ゲルマン人の侵入がくり返されました。
4世紀、ローマ帝国は東西に分裂し、ゲルマン人の大移動により、476年、西ローマ帝国は滅亡しました。
ローマ帝国の基礎を築いたユリウス・カエサルの働きと、ゲルマン人の大移動に焦点をあて、ローマ滅亡への歴史を振り返ってみましょう。
【第4章Lesson5】中学歴史要点クイズ問題スタートです!
目次
軍人皇帝時代、ゲルマン人の侵入が増える!ローマ帝国は東西分裂?
( )のことばを答えてみよう!
- 人名Iulius Caesar「ユリウス・◯◯◯◯」、英語名でジュリアス・シーザーといいます。ローマ帝国の基礎を築いた人物です。
- 五人の賢い皇帝の時期です。短く3文字で書くと?
- 「◯◯皇帝時代」です。
❶ ユリウス・カエサルが築いたローマ帝国の基礎
ローマ帝国史を学ぶにあたって、ユリウス・カエサルを欠かすことはできません。彼は「ガリア戦記」という著作を残していますが、彼がローマの最高権力者となるまでの簡単な足取りをたどっておきましょう。
(ガイウス・ユリウス・カエサル立像:Wikipedia)
前60年、民衆から絶大な支持を得ていたカエサルは、オリエントを平定したポンペイウス、経済力を持つクラッススと三人で、「第1回三頭政治」を開始し、元老院に対抗しました。これが共和政から帝政への移行期です。
前52年、カエサルはガリア(今のフランス)戦争を終え、ライン川・ドナウ川までの広大な地域をローマの属国として支配下におき、ローマ帝国の基礎をつくりあげました。前49年、カエサルに、ガリア総督の解任とローマ本国への帰還命令が出されました。ポンペイウスは元老院と結びカエサルを倒そうとしたのです。
「この川を越えてローマに入る時は軍団を率いてはならない」とされていたルビコン川を渡る時、カエサルは「賽(さい)は投げられた(後戻りはできない)!」と言い、堂々と軍団を率いてローマに戻っていったのです。カエサルは素早い行動で、勢力に優っていたポンペイウスを破り、ローマの最高権力者となりました。
前44年、終身独裁官に就くカエサルに、共和政を守ろうとする人々が反発し、カエサルは元老院の会議にむかうとき信頼していたブルータスらに暗殺されます。イギリスの文豪シェークスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」には、「ブルータス、お前もか。」との有名なセリフがあります。
カエサルの遺言で後継者とされた18歳のオクタヴィアヌス(のちの尊称アウグストゥス)が兵士と民衆の信頼を集め、政敵を退けて44年間の治世を全うし、「ローマの平和」への統治をねばり強く進めていきました。
❷ 五賢帝による「ローマの平和」の時代
五賢帝(ごけんてい)は、ローマ帝政期(96~180年)に相次いで統治したネルウァ,トラヤヌス,ハドリアヌス,アントニヌス・ピウス,マルクス・アウレリウスの5人の有能な皇帝。
五賢帝最後のマルクス・アウレーリウスの時代は、力を強めてきた北方のゲルマン人諸部族の国境侵入の圧力と戦い続けた時代でした。
彼は戦場で「自省録」を書き残し、哲人皇帝と呼ばれています。彼の治世末期には、ローマ帝国の財政のいきづまりがあきらかになり、帝国のまとまりがくずれはじめました。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス(出典:Wikipedia)
❸ 軍人皇帝時代
「3世紀の危機」といわれる235年〜284年、各属州の軍団が独自に自分たちのリーダーを皇帝にたて、元老院のたてた皇帝と争い、短期間に多数の皇帝が即位しては殺されるという「軍人皇帝の時代」となりました。
ローマの軍団同士が争う中でローマの防衛力が衰え、ライン川・ドナウ川以北に押さえ込まれていた北方のゲルマン人(さまざまな部族があります)や、東のササン朝ペルシアが、ローマ帝国の国境に侵入してきました。
ローマ帝国の東西分裂。ゲルマン人の大移動で西ローマ帝国が滅亡!
( )のことばを答えてみよう!
- コンスタンティヌス帝がビザンチンを作り替えて首都としたので、彼の名がつきました。「◯◯◯◯◯ティノープル」です。東西分裂後は東ローマ帝国の首都となりました。
- ◯◯◯◯人(民族)です。ドイツ人を英語ではGerman(ジャーマン)と言いますが、ドイツ語読みでは◯◯◯◯と発音します。
- ローマ帝国が二つに分裂しました。先に滅びたのは、そのどちら側ですか?
❶ コンスタンティノープル
284年に皇帝ディオクレティアヌスは、ローマ帝国を東西に分けて、ローマ帝国内の4つの地域それぞれを正帝と副帝とが統治する「四帝分治制」をしいて、一つのローマ帝国としての秩序を回復しました。
力を強めてきた北方のゲルマン人諸部族の侵入に対抗するには一人の皇帝で対処するにはローマ帝国の領土が広大すぎたからです。彼は皇帝を神として崇めさせ、以後、ローマ帝国の政治は、元首政から専制君主政へと変化しました。
次の皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教を公認してローマ帝国の統一をはかるとともに、軍隊を増やし、小作人(コロヌス)を土地にしばりつけて税を増やしました。
330年、黒海への出入り口にあるビザンチウムを首都コンスタンティノープルとしました。重税は属州の反乱をまねき、ゲルマン人の大移動への引き金となっていきます。
東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル(出典:Wikipedia)
❷ ゲルマン人の大移動
ユリウス・カエサル以来、ローマ帝国は、北方のライン川・ドナウ川を境に、ガリア(フランス)地方を属国とし、狩猟民族であるゲルマン人の侵入を抑えていました。
ローマ帝国の末期になり、ローマ軍団同士が闘う軍人皇帝の時代になってくると、その防衛戦が頻繁に破られ、ガリアからイタリア半島へと侵入して穀物や家畜を略奪し、あるいは、ローマに雇われる傭兵(ようへい)となったり小作人としてローマ社会に入り込んできました。
4世紀後半、東からアジア系のフン族が押し寄せてきて、ゲルマン人を圧迫したため、新たな移住先を求めてガリアからイタリアへと大量に入り込んできました。
これが「ゲルマン人の大移動」です。
今日、フランスの語源となったフランク族、イギリスの語源となったアングロ=サクソン族(アングロランド→イングランド)が定住し、国を建てていきました。
ゲルマン民族の大移動の推移;紀元前750年-1年(出典:Wikipedia)
❸ 西ローマ帝国
395年、皇帝テオドシウスは、息子二人にローマ帝国を二分して与えました。それぞれが独立国となり、ローマ帝国の滅びる5世紀に入っていきます。
ローマの城壁については、王政時代に都市国家ローマを700年間守ってきた城壁を、ユリウス・カエサルは取り払い、首都ローマの安全はライン川・ドナウ川などの防衛線(リメス)によって守られるものである、と言明しましたが、それから300年後の275年、首都ローマに城壁が築かれました。
しかし、それは先を読んだアウレリアヌス帝の慎重な対策であり、その後も100年以上の長期にわたり、ローマの城壁近くに敵が迫ったことはありませんでした。
しかし、5世紀には、イタリア半島はもとよりローマ市内にもゲルマン人の勢力が入り込んできました。410年、ローマを包囲したゲルマン人(西ゴート族)に、金銀・貴重品のすべてを奪いとられました。
475年、15歳の西ローマ帝国の皇帝が就任しましたが、476年に退位させられ、西ローマ帝国は滅びました。
前8世紀、イタリア半島に都市国家として誕生し、前3世紀にイタリア半島を統一して始まったローマの千年を越える歴史は幕を閉じましたが、ゲルマン人の支配者はローマ人の人材を登用し、役職につけて活用していきました。
歴史はこうして続いていったのです。
(画像出典:Wikipedia)
皇帝マルクス・アウレーリウス「自省録」を読んでみよう
五賢帝の最後の皇帝、マルクス・アウレーリウスは、哲学者プラトンのいう「有徳者の政治」を体現したローマ皇帝(121〜180年)です。
「蕃族の侵入や叛乱の平定のために東奔西走(とうほんせいそう)したが、わずかに得た孤独の時間に自らを省み、日々の行動を点検し・・・著者の激しい人間性への追求がみられる」との紹介があります。
激務の中、彼が折に触れて書き綴った手記を味わってください。
第1章
父から学んだこととして「温和であることと熟慮の結果一旦決断したことはゆるぎなく守り通すこと」「評議の際、ものを徹底的に検討しようとする態度。ねばり強さ。」「はるかかなたを予見し、悲劇的なポーズなしに、細小のことに至るまであらかじめ用意しておくこと。」と、書き綴っています。第3章
「何かするときいやいやながらするな、利己的な気持ちからするな、無思慮にするな、心にさからってするな。君の考えを美辞麗句で飾り立てるな。余計な言葉やおこないをつつしめ。なお君のうちなる神をして・・・統治者である人間(自分自身のこと)の主たらしめよ」と、自分に語りかけています。第4章
「何年も後に死のうと明日死のうと大した問題ではない」「このほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を讃めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちていくように。」と書き残しています。
・・・あとは、自分で読んでみましょう!引用文献:マルクス・アウレーリウス「自省録」神谷美恵子訳(岩波文庫)
コーヒーブレイク
勝利して、ローマでの凱旋式で馬車に乗る皇帝は、「死すべき宿命である人間であることを忘れるな!」と、式の間、後ろから言い続ける奴隷を乗せていました。
ラテン語でメメント・モリ(memento mori)「死を忘れるな」といいます。
日本語でも、「勝って、兜(かぶと)の緒(お)を絞めよ」ということわざがありますね。
(皇帝マルクス・アウレリウスの凱旋式:出典Wikipedia)
ロバ先生より
5つのlessonで、たっぷりと、ギリシャ・ローマの世界を見てみました。中学生にはちょっと難しかったかもしれませんが、どこかに興味をもってくれると嬉しいですね。
歴史から学ぶことはたくさんあります。興味や関心を持ち続けて、楽しみながら自分で調べてみることが大切です。
一つの世界を知ることで、またさらに関心が広がり、自分の心の中が大きく広がっていきますよ!
スゥ〜(と息を吸って)〜ヴヒヒヒ〜ン(ロバの啼き声)
次回の歴史クイズ→第5章Lesson1
※順番に読み進めると知識が深まります。
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