すべての道はローマに通ず!ローマ法と実用的文化で「ローマの平和」を築く!

北澤篤史
北澤篤史

前回の歴史クイズ(復習)→第4章Lesson2

前3世紀、イタリア半島を統一したローマでは元老院が実権をもち、中小農民の平民はローマ軍の中核として発言権を強めました。ローマは法律や税制を整え、アッピア街道などの道路をローマの支配地域に通し、都市への水道橋を作る実用的な文化を築きました。ローマ帝国となった前27年からの200年間は「ローマの平和」と呼ばれる安定した政治で広大な領域を支配します。

ローマは一日にして成らず!紀元前8世紀の建国から1000年間の長い苦難の歴史を学んでいきましょう。

【第4章Lesson3】中学歴史要点クイズ問題スタートです!

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道路・水道など実用的な文化を築いたローマ帝国が登場!

紀元前3世紀、イタリア半島を統一した( ① )は、やがて、地中海を支配する大帝国となりました。ローマ人は、ギリシャやオリエントの文化を取り入れ、石畳の道路網、( ② )橋、闘技場のコロッセウムなど、実用的な文化を築きました。

(  )のことばを答えてみよう!

  1. 現在、イタリアの首都の名前です。
  2. 今、どこの家庭にも引かれている、電気・ガスとならぶ社会資本の施設です。高低差を利用して、山から川や泉の水を大都市ローマに流し込みました。ローマ人はお風呂が大好き!
1.ローマ
2.水道(橋)

 

❶ ローマ

「ローマは一日にして成らず」とのことわざがあります。

ローマは、アフリカ北部を含む地中海全域を支配し、ライン川・ドナウ川の南と西に広がる現在のイタリア・フランス(ガリア地方)・スペイン、そしてイギリスなど、広大な地域に支配を広げました。

だが、ヨーロッパの基礎を築いたローマ帝国も、その支配地域を築くまでには700年もの歳月を費やし、長い苦難の歴史がありました。

都市国家ローマは、紀元前8世紀、イタリア半島に設立されました。周辺の国や部族と戦い、彼らをローマ内部にとりこみながら、紀元前3世紀にはイタリア半島全域を統一しました。

ギリシャやオリエントの文明を取り入れ、実用的な文明を発展させます。頑丈な石畳の道路で首都ローマと支配地域とを網の目のように結び、都市に必要な水は水道橋を建設して供給しました。

また、ローマ市民が楽しむ競技場(闘技場)コロッセウムを建設しました。

(円形闘技場コロッセウム 出典:Wikipedia

❷ 水道橋

476年に西ローマ帝国が滅びて1500年以上経ちますが、写真にみるように当時建設された水道橋や石畳の道路がしっかりと残っています。高い建築技術をもっていたことがわかります。


(ローマの作った水道橋:写真出典Wikipedia

前3世紀から後2世紀までの500年間にローマ人が敷設(ふせつ)した道路の全長は、幹線だけでも8万km、支線まで加えれば15万kmに達しました。


ローマ近郊、アッピア街道州立公園(写真出典:Wikipedia

前3世紀は、東方の中国では秦の始皇帝(しんのしこうてい)が万里の長城(ばんりのちょうじょう)を建設した時代です。明(みん)の時代につくられた長城を含めると5千kmに及びます。

中国では長城を築いて国を守り、ローマは支配地域の隅々にまで「すべての道はローマに通ず」という道路を敷いて国を守る手段とした、という興味深い特色が見えます。

もっともローマ帝国は、ライン川とドナウ川、東のユーフラテス川を、支配地域を守る重要な線としていました。

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ローマ帝国は法律や税制を整え、圧倒的な軍事力で「ローマの平和」を築いた!

地中海からヨーロッパ・西アジアに広がる地域を支配したローマ帝国は、ローマ市民や属州の民族を支配するために、十二表法などの( ① )を整えました。
ユリウス・カエサルのあとを継ぎ、前73年、アウグストゥスから始まったローマ帝国では、以後200年間、「( ② )」と呼ばれる空前の繁栄と平和が続きました。

(  )のことばを答えてみよう!

  1. 慣習法を成文化した◯◯が、十二表法です。
  2. ラテン語で「パクス=ロマーナ」といいます。圧倒的なローマの軍事力に支えられた平和です。「◯◯◯の◯◯」
1.法律
2.ローマの平和

 

解説

❶ 法律

法律にもとづく政治は、ローマ社会の基本です。

前450年、それまで貴族階級の神官が独占していた裁判の基準が、12枚の銅板に明示されたので「十二表法」と呼びました。

これによって、法の前では貴族も平民も対等になります。さらにローマの市民法として発達し、後6世紀には、ローマ法大全へとまとめられました。

❷ ローマの平和

ユリウス・カエサル(英語名ジュリアス・シーザー)の養子となって後を継いだアウグストゥス(尊厳者という意味)による元首政が紀元前73年に始まりました。

ここからローマ帝国の五賢帝の政治が続いた200年間の時代を「ローマの平和(パクス=ロマーナ)」と呼びます。

パクス・ロマーナの石像
パクス・ロマーナの石像(出典:Wikipedia

それまで、ローマのイタリア半島の統一から、各地での征服戦争、カルタゴと地中海の覇権(はけん)を争ったポエニ戦争(前264〜前146年)、「内乱の1世紀」など、ローマ世界では常に戦争が絶えませんでした。

だが、この時期には、皇帝による統一的な政治と、ローマの圧倒的な軍事力による覇権(はけん)が確立したため、地中海一帯はもとより、ガリア(現フランス)地方をはじめとする属州においても、北方の異民族の侵入がローマ軍によって抑えられて生活の安定がもたらされていました。

ローマ風の都市が道路や水道とともに広い領土の要所に作られます。そのなかには、ロンドン・パリ・ウィーンなど、のちに近代都市となったものも多くありました。

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「すべての道はローマに通ず」とはどう言う意味だろうか?

前3世紀から後2世紀までの500年間にローマ人が敷設(ふせつ)した道路の全長は、幹線だけでも8万km、支線まで加えれば15万kmに達しました。

ローマの道路の特徴は長さだけではありません。アッピア街道が作られたのは紀元前312年といいますから、1700年以上前の街道が、表面の石は長年の間に丸みを帯びていますが、今も現存しています。このような頑丈な道路は、どのような作りになっているのでしょうか?

幹線道路は、兵士の軍団がそろって移動でき、馬車も通れる幅4mに作られました。地面を深さ2mほど掘りさげ、最下層には30cmの砂利を敷き詰めて排水を良くし、さらに砕いた石などを何層にも積み重ねて完全に平坦な道路としていきました。道路の最上層には接面がぴたりと合うように切った大石(幅70cmほど)をすきまなく敷き詰めていきます。

しかも、中央部分はゆるやかな弓形になるように盛り上げて作り、雨水がこの道路の両側に作った排水溝に流れる設計としていました。

排水溝の外側には、市内の道路と同じく幅3mほどの歩道をつけます。これが、ローマ人の作る道路の基本仕様です。支配地域を広げるたびに、兵士たちは道路工事や橋や、砦の建設工事をしていったのです。

確実に積み上げて、次へ進むという、当時のローマ人の実用的な文化を発展させた特質がよく現れています。

街道には、12kmごとに馬の乗り継ぎ場が置かれ、宿舎が作られ、郵便制度も整えられて行きました。広大な支配地域の末端の出来事がすぐさまローマの皇帝に届いたのです。これが「すべての道はローマに通ず」と言われる理由です。

コーヒーブレイク:ローマ人はお風呂が大好き!

多くの都市に少なくとも1つの公衆浴場(公共浴場)があり、市民のいこいの場となっていました。温浴室、冷浴室、サウナ、冷水プールもあり、まるで、日本の温泉のようですね。入浴前に体を鍛えるトレーニング施設もありました。

だれでも利用できる公衆浴場は、ローマ人の生活に欠かせないものでした。皇帝も市民を喜ばせ、自分の名を残すために公衆浴場を作りました。

外国人に「なぜ毎日、公衆浴場に行くのか?」と聞かれたローマ皇帝はこう答えた、との話があります。次の中から選んでみよう!

A.オレのたくましい体をみんなに見せてやるんだよ。
B.一日に2回行くだけの時間がとれないからだ。
C.わしは、タイムスリップしてここに来た日本人なんじゃ。

ヒント:質問の意味をわかりながら、うまく返しています。さすが!

次回の歴史クイズ→第4章Lesson4
※順番に読み進めると知識が深まります。

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