前回の歴史クイズ(復習)→第7章Lesson1
前8世紀から戦乱の続く春秋・戦国時代、孔子は、社会秩序を重んじ、道徳を中心とする政治を説きました。この儒教の教えは中国の政治や社会・文化の理想とされ、「論語」にまとめられました。儒教は朝鮮や日本にも伝わり、大きな影響を与えました。
前221年、秦の始皇帝が初めて中国を統一し、北方の遊牧民の侵入を防ぐため万里の長城を築きました。秦は、厳しい政治に不満をもつ農民の反乱により、15年で滅びました。
孔子による儒教の教え、秦の始皇帝と「万里の長城」について学んでいきましょう。
【第7章Lesson2】中学歴史要点クイズ問題スタートです!
目次
春秋・戦国時代、孔子は儒教を開き、教えは「論語」にまとめられ、日本にも伝わる。
( )のことばを答えてみよう!
- ◯子といいます。子(し)は男性の敬称で、先生という意味です。孔雀(クジャク)というオスが羽を広げると美しい鳥がいますね。読み方は違いますが◯にはこの字を使います。
- ◯教ですが、宗教ではなく思想です。学問的側面を強調すると◯学という言い方もします。経済の学習で「需要と供給」という言葉がありますね。この1文字に人偏をつけてください。
- 「子曰く(し いわく=先生はおっしゃった)」から始まる512の孔子と弟子たちとの問答を書き記した書物です。
❶ 孔子
孔子は3歳で父を亡くし、母は身分の低い女性でした。17歳で孤児となり、独学で礼学を学びつつ、貧しい出自を克服し得る唯一の手段であった学問で、立身出世の道を模索することを決意します。
江戸時代、5代将軍徳川綱吉によって建てられた湯島聖堂にある孔子像(出典:Wikipedia)
「貧乏でも怨みがましい心を持たないのは難しい」と孔子は語っています。
周王朝が滅亡し、人々の心が荒れすさんだ春秋・戦国時代において、孔子は、仁(じん)と礼(れい)によって国を治める政治家として立つことを決意します。
大国「斉(せい)」の君主に謁見を許され政治の要道を聞かれた孔子はこう答えました。
君は君たれ。臣は臣たれ
父は父たれ。子は子たれ
紀元前501年、52歳で「魯(ろ)」の国王に仕え、中都の宰(長官)の地位を得た孔子は、無駄な歳出をなくして大幅な減税を行い、一年にして周囲の都市が真似をする善政を敷きました。
孔子は、さらに土木を司る司空となり、司法警察長官である大司寇を務めました。貴族の家柄でもない孔子にとって、これは破格の扱いでした。
さらに外交官ともなります。だが、仕える為政者が替わると孔子の意見は取り入れられず、失意のうちに去ることを繰り返しました。多くの弟子が従い、74歳で没しました。
子曰く、吾十五にして学に志す
三十にして立つ
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳従う
七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず
❷ 儒教
孔子の教えです。学問的には儒学、思想的には名教・礼教と呼ぶことがあります。戦乱の時代、「人はいかに生きるべきか、国家を治めるものはいかに政治を行うべきか」という道徳を教えました。
そのキーワードが「仁」と「礼」です。孔子は、君子が「仁」の道徳によって民衆を導き、「礼」によって社会を秩序づけることを教えました。「仁」とは人を思いやる普遍的な愛の心のことです。
言明を違えず真実を告げること、約束を守り誠実であることです。「仁」の実践の第一歩が、父母に孝行をし、兄によく従う家族道徳であり、仁を広く天下・国家に広げる具体的な表現方法として「礼」を強調しました。
この儒教文化は、朝鮮には中国以上に深く浸透し、現在でも朝鮮の社会生活に深く根づいています。
儒教の始祖、孔子(出典:Wikipedia)
❸ 論語
孔子の死後、孔子と高弟たちとの問答集としてまとめられました。「論語読みの論語知らず」という日本のことわざがありますね。これは、書物に書かれた知識を学ぶだけで、実行し得ていない人のことです。
論語の本質は仁の道徳を礼をもって実行することです。
論語には「子曰(しいわく=先生はおっしゃった)から始まる512の短文に、中国伝統の祖先崇拝と、仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会を築く教えが凝縮されています。
日本では、知識層の間で論語は読まれ続け、江戸時代には儒学である「朱子学」を幕府が正式な学問として採用したことから、論語は武士の必読の書となりました。
孔子の晩年と弟子について調べてみよう
孔子の身長は、9尺6寸、216cm(春秋時代の1尺=22.5cm)で世にいう「長人」です。
戦乱の時代に諸国を遊説(ゆうぜい)して仁と礼にもとづく理想の政治を説きましたが受け入れられず、帰国した晩年は教育に専念しました。たくさんの個性ある弟子が集まったと言います。
「てきぱきした実務家/温厚の長者/せんさく好きな故実家(こじつ=儀式や作法)/いささか詭弁派的(きべん=間違ったことでも正しいと言いくるめる)な享楽家/気骨稜々(りょうりょう=すさまじい)たる慷慨家(こうがい=世の中の不正を嘆く)/長人孔子の半分ぐらいしかない短矮(たんわい)な愚直者(ぐちょく=正直すぎで気のきかない「馬鹿正直」)/年来からいっても貫禄からいっても、もちろん子路(しろ)が彼らの宰領格である。・・・」(参照:中島敦「弟子」角川文庫)
孔子は、「七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」と言いましたね。これは、心のままに行動しても、仁の道にかなっており、礼の規範から外れることもない、という自由な心境を語っているものです。
秦の始皇帝が中国を統一!遊牧民の侵入を防ぐ万里の長城を築く。
( )のことばを答えてみよう!
- 「◯の◯皇帝」です。「最初の皇帝」と呼ばれた人は、「しん」と呼ばれる国を建てました。中国で「しん」という国は三つあります。清・晋・秦です。さて今回はどれでしょうか?
- 当時の中国では1里は400mほどです。文字通りなら「4000kmの長さの城」となりますが、そこまでは長くありませんね。「白髪三千丈(はくはつさんぜんじょう)」なみの誇張した表現法です。
❶ 秦の始皇帝
建国年の覚え方の一つは、「前、武夫一番(前221)の始皇帝」です。
前3世紀に中国を統一した秦の始皇帝(出典;Wikipedia)
13歳で秦の王に即位した「政(せい)」は26年間で、「戦国七雄」の他国をすべて滅ぼし中国を統一しました。「光り輝く神」の意味をもつ「皇帝」の称号を初めて採用したので、秦の始皇帝といいます。
最近の人気マンガで、映画やTVアニメにもなった「キングダム」では、愛情深い人としても描かれて、想像豊かにストーリーが展開されていますね。
歴史書「史記」には、始皇帝は「恩愛の情に欠け、虎狼(ころう)のように残忍な心の持ち主であった」と記してあり、「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」、すなわち、医薬・占い・農業以外のすべての書物を焼き、数百人の儒者(儒教を研究し教えていた人たち)を穴に埋めて殺した、とあります。
『史記・秦始皇本紀』(出典:Wikipedia)
ただし、「史記」は、儒教を正学とした漢の時代に書かれた歴史書なので、誇張があるとも言われています。
始皇帝は、官僚制度を整えて中央集権国家のしくみを整え、自国内でおこなっていた郡県制度を全国に施行し、直接中央から派遣した官吏に地方を治めさせました。
貨幣や度量衡(どりょうこう=長さ、容積、重さの単位)や文字の統一を進めました。北方の防衛に「万里の長城」を築きました。また、長江よりさらに南にあるチュー川流域の華南までを征服しました。
こうした、あいつぐ対外戦争と土木工事の負担は人々を苦しめ、始皇帝の死後、各地で反乱が起こり、秦は統一後15年で滅びました。
❷ 万里の長城
「戦国七雄」が争っていたころは、北方の遊牧民族も他の民族と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態がありましたが、秦による中国統一のころには勢力を強めてきました。
秦は、北方の遊牧民族である匈奴らの侵入を防ぐために、戦国時代の長城を修復・延長し、繋げて「万里の長城」を築き上げました。
秦代の長城。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至る。(出典:Wikipedia)
この時代の長城は粘土質の土を固めて築いたものであり、騎馬が乗り越えられない程度の高さ(幅3~5m、高さ約2m)で、後世のものより北方にありました。
後の王朝も改修や延長を行い現在に至ります。
万里の長城(出典:Wikipedia)
近年に発掘された兵馬俑(へいばよう)を調べてみよう!
1974年3月、住民が井戸を掘ろうとしていると硬いものにあたり、地中から等身大の陶器で作った人形が青銅の矢とともに出てきたことから、大規模な調査が始まりました。
1年間の発掘で、東西200メートル以上南北60メートル以上におよぶ兵馬俑坑1号坑の全容が発掘され、発見された俑は6000体に及び、世界的なビッグニュースとなりました。当時、日本でも数体の人馬が展示されました。
兵馬俑にある騎兵俑と軍馬俑(出典:Wikipedia)
続いて2号坑、3号坑も発掘され、始皇帝陵兵馬俑坑では、現在までに約8000体の俑が確認されています。皇帝陵を守るように東方に向かって人馬が進撃する姿でおかれた兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはなく、彩色されており、指揮官・騎兵・歩兵と異なる階級や役割を区別して作られているのがすごいことです。
始皇帝の権力の大きさを偲ばせるものとなっています。現代でも、まだ発掘調査は継続されています。
兵馬俑(出典:Wikipedia)
秦の末期、中国史上最初の農民反乱が起こる
始皇帝の亡くなった翌年、中国史上最初の農民反乱であった「陳勝・呉広の乱」がおこりました。
陳勝と呉広は辺境守備のため、半ば強制的に徴兵された農民900名と共にいく途中、大雨で道が水没し、期日までに着く事が不可能になりました。
「俺たちは大雨に降られ、最早期日には間に合わない。期日への遅れは問答無用で斬首だ。仮に殺されないとしても、労役で死ぬのは10人中6,7人であり、労役で死なずとも帰途で死ぬかもしれない。どうせ死ぬのならば、名を残して死ぬべきだ。もとより、人間に王侯将相の種族の別があろうか」。兵卒たちはこれを聴き、一斉に同意を示した、とあります。(引用:Wikipedia)
この反乱が大きく広がっていったのです。
漢の開祖、劉邦は陳勝を尊び、彼の墓所の近くに民家を置いて代々墓守をさせました。
次回の歴史クイズ→第7章Lesson3
※順番に読み進めると知識が深まります。
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