前章の歴史クイズ(復習)→【第3章】オリエントの古代文明―エジプト文明とメソポタミア文明
ギリシャ文明は、前2000年頃、エーゲ海にあるクレタ島から始まりました。前8世紀、ギリシャには多くの都市国家(ポリス)がつくられました。
アテネでは直接民主政が発達し、スパルタは「スパルタ教育」とよばれる厳しい鍛錬を市民に課した軍事国家を築きました。強大なペルシア帝国に攻め込まれた前5世紀、ギリシャ全土のポリスは共同して立ち向かい、勝利しました。
ギリシャ、ローマの歴史は中学校ではあまり扱いませんが、現代のヨーロッパや世界を理解するために必要な基礎知識です。
Let’s challenge!
【第4章Lesson1】中学歴史要点クイズ問題スタートです!
目次
ギリシャには多くの都市国家(ポリス)が誕生!民主政治のアテネとスパルタはペルシアの侵入を破る?
( )のことばを答えてみよう!
- 武装して国家を守るという意味から「警察」を英語で◯◯◯といいます。また、東京・名古屋・大阪など、太平洋ベルト地帯の都市群を「東海道メガロ◯◯◯」と呼んでいます。
- 現在のイランを昔はこう呼んでいました。◯◯◯アでも、◯◯◯ャでも構いません。高級な◯◯◯◯ネコ、◯◯◯◯絨毯(じゅうたん)などが、今でも有名です。
❶ ポリス
ギリシャは国土の80%が山岳地帯で、平地は少なく、やがて独立した都市国家(ポリス)が発達して市民の自治による政治が行われるようになります。
ギリシャ語のポリスから、政治をpolitics、警察官をpoliceとよぶ言葉がうまれました。
200ほどあったギリシャのポリスの多くは数百〜数千名でしたが、アテネやスパルタは、奴隷も含めると10万〜20万人を超える人口をもち、広い領域を支配していました。
❷ ペルシア帝国
ペルシアは今のイランです。当時、専制君主政のアケメネス朝ペルシアは全オリエント(今の西アジア・中東)を統一した大帝国となっていました。
ギリシャ人が植民していた市が反乱を起こし、支援したアテネに、ペルシアは遠征軍を送りました。民主政によって団結を強めていたアテネ市民の重装歩兵軍は、前490年、マラトンの戦いでペルシア軍を打ち破ります。
その後、アテネは海軍を充実させ、前480年のサラミスの海戦でも、ギリシャのポリス連合軍はペルシア軍を大敗させました。
ペルシア戦争の勝利によってギリシャ人は、オリエントの専制支配からポリスの独立と自由を守ったという自信を深め、デロス同盟を結んでペルシアの再侵入に備えました。
ペルシア帝国の領土拡大(出典:コトバンク)
アテネの民主政治の特色は?直接民主政(直接民主制)と間接民主制の違いは?
( )のことばを答えてみよう!
- 代表的なポリス。今のギリシャの首都です。
- 市民の集会を、短くして2文字で書くと?
- ◯◯◯◯政です。投票して選ばれた代表者が政治を行うのは間接民主制の政治。では、市民一人ひとりが議決権をもつ全体集会で決議していくのは?
❶ アテネ
アテネ(ギリシャ語ではアテナイ)は、最盛時25万の人口をもつ大きな都市国家(ポリス)で、貴族と農民である平民からなるアテネ市民が支配する奴隷制度が発達していました。
人口の3分の1にのぼる奴隷の大多数は異民族で、家事、農業、手工業、銀山の採掘に従事していました。エーゲ海の沿岸にある貿易都市アテネは、共通の文字となったアルファベットを用い、オリエントとの交易で財力を蓄えます。
前7世紀には、軍隊において騎馬を利用する貴族よりも、平民が多数参加する重装歩兵部隊(武具は自費)が力を強め、民主政が進みました。
前6世紀には、血統でなく財産をもつ平民の参政権が認められ、また、借財を負った市民を奴隷として売ることが禁止されました。
アテネのアクロポリス(出典:Wikipedia)
❷ 民会
ペルシア戦争で勝利したアテネは海軍力を強め、エーゲ海周辺のポリスの中心となって、ペルシアの再侵攻に備えたデロス同盟を結びました。
軍艦の漕ぎ手となった無産市民(財産をもたない市民)の発言力も高まり、前5世紀半ばに、アテネ民主政が完成しました。
市民は貧富にかかわらず参政権をもち、民会は成年男性市民の全体集会で、国家の政策を決定しました。任期1年の役人や、裁判の判決を出す陪審員(ばいしんいん)を抽選(ちゅうせん)で選びました。
役人や政治家の責任は弾劾裁判(だんがいさいばん)で厳しく追及されました。女性、奴隷、在留外人には参政権はありませんでした。
❸ 直接民主政
アテネの民会が、成年男性の全体集会で決定して行ったという政治のやりかたを、直接民主政(直接民主制の政治)といいます。
現代でも、スイスが直接民主政を行うことで知られており、ウルグアイも「南米のスイス」とよばれ、直接民主政をとりいれています。
現代、各国で取り入れられてきている直接民主制の意味は、アテネの民会とは異なり、有権者が一定数の署名を集めれば国レベルの国民投票を要求できるということが中心です。
わが国は、「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し(日本国憲法 前文)」と間接民主政(議会制民主主義)のしくみを基本としていますが、憲法改正の国民投票や、最高裁判所裁判官の国民審査など、国政での直接民主制のしくみがあります。
また、都道府県・市町村ではより多くの直接民主制のしくみがあります。
スイス・グラールス州のランツゲマインデ(州民集会)2014年(出典:Wikipedia)
スパルタ教育とは何?ペロポネソス戦争はなぜ起こった?
( )のことばを答えてみよう!
- きびしい教育を「◯◯◯◯教育」と言いましたね。
- ギリシャ国土の最南端の大きな半島を「ぺ◯◯◯◯ス」半島といいます。ギリシャのポリスどうしの戦争です。
❶ スパルタ
スパルタ市民は多数の奴隷の反乱を防ぐため、一人ひとりの市民の心身を鍛え、ギリシャ最強といわれる軍事国家を築きました。
「子どもは国家スパルタのもの」とされて7歳より軍隊の駐屯地に集めて共同生活をさせ、下着姿に裸足で訓練するなど、「スパルタ教育」といわれる厳しい規律のもとで成人するまですごしました。
女性は子作りが最優先とされ、強い子供を産める母体の育成のために幼少期から厳しい体育訓練を受けていました。
スパルタの位置(出典:Wikipedia)
❷ ペロポネソス戦争
アテネは、ペルシアと結んだスパルタに敗れましたが、敗戦後もアテネの民主政を守り続けて勢力を回復し、ペルシアがギリシャ人どうしが互いに争うようにしむけたので、有力なポリス間の争いはくり返されました。
(ペロポネソス戦争:Wikipedia)青:ペロポネソス同盟諸都市、赤:デロス同盟諸都市、黄:アケメネス朝
ギリシャはなぜオリンピック発祥(はっしょう)の地となったのか?
オリンピック入場行進では各国代表団がABC順の国名で登場します。日本はNIPPONですからNの時に出てくるわけです。でも、ギリシャはいつも先頭で入場します。
オリンピックで世界各国を回って開催国まで届けられる聖火も、ギリシャのオリンピアで太陽の光を集めて燃やした火をリレーして運ばれるのです。それは、古代オリンピアの祭典に由来がありました。
ギリシャでは、都市国家間の争いが続いていましたが、伝染病の広がりに悩んだエーリスの王が祈る神殿で「争いをやめ、競技会を復活せよ」との啓示を受けて、紀元前776年、オリンピアで、エーリスとスパルタの2国が第1回の古代オリンピックを開き、以後、4年に1回の競技に、やがて全ギリシャが参加していった歴史があります。
その準備と競技の3ヶ月間ほどはすべての争いをやめて、裸になって「強く、高く、速く」を競い合いました。
第1回の近代オリンピックは、1896年にアテネ(ギリシャ)で開催されました。オリンピック旗の五輪マークは「5つの大陸の団結とオリンピック競技大会で世界中の選手が集うことを表現する」とあるように、平和と団結の象徴です。
(画像出典:Wikipedia オリンピックの旗)
「選手は国の代表」というイメージがありますが、オリンピック憲章には「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない。」と明記されています。これは、オリンピックが国威発揚(こくいはつよう)を目的としてはならず、平和の祭典であるとの意思を示したものですね。
コーヒーブレイク:マラトンの戦い
オリンピックの花形競技がマラソン(marathon)です。なぜ、42.195kmを走るのでしょう?
紀元前490年のペルシア戦争で最初の激戦「マラトンの戦い」があり、アテネを中心とするギリシャのポリス連合軍が勝利しました。この喜ばしい結果をアテネ市民に届けようと、伝令の青年がアテネまでの悪路を走り続け、「わが軍、勝った!」と告げて、息絶えたとの伝説から、マラソン競技が始まったのです。
マラトンとアテネとの距離が42.195kmでした。第1回のアテネで開かれた近代オリンピックで、無名のギリシャ人青年が優勝し、この伝説が定着しました。
次回の歴史クイズ→第4章Lesson2
※順番に読み進めると知識が深まります。
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