前回の歴史クイズ(復習)→第7章Lesson2
秦が滅んだ後、再び中国を統一した漢は、遊牧民族を攻めて中央アジアに領土を広げます。南はベトナム北部を支配し、東は朝鮮北部を支配して楽浪郡などを置きました。
漢では、儒教が国教となり、紙が発明され、絹織物や漆器がつくられ、歴史書が編纂されました。
漢がオアシス都市を支配したため、中央アジアを通って西方との交通路が開けました。中国の絹がローマ帝国に運ばれ、西方の馬やガラス・ブドウが中国に伝えられました。
この道はシルクロード(絹の道)と呼ばれ、仏教も、この道を通ってインドから中国に伝わりました。
漢の中国統一と、シルクロードでの東西交流を学びましょう。
【第7章Lesson3】中学歴史要点クイズ問題スタートです!
目次
漢は朝鮮に楽浪郡をおく。儒教を国教とし、紙を発明する。
( )のことばを答えてみよう!
- 広大な中国を統一し、前◯・後◯合わせて400年の歴史を持つ国です。日本に伝わった文字を「◯字」と言いますね。
- 「◯◯郡」と言います。楽しい浪の郡です。
- peparです。古代エジプトではパピルスが作られ、西アジアでは羊皮紙が作られましたが、これは、ズバリ◯です。
❶ 漢
建国年の覚え方の一つは、「前漢は、武を二人(前202)劉邦、勝って400年!」です。「武を二人」というのは項羽と劉邦です。
前206年に秦が滅亡したあと、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の状態から、劉邦(りゅうほう)が項羽を打って中国を再統一しました。
これが漢です。この前漢(紀元前206年〜8年)と光武帝が起こした後漢(25年〜220年)の二つの王朝(両漢)を総称して漢王朝と呼びます。
漢は紀元前後の400年間、中国に統一王朝を作ります。中国で最も多い民族を漢民族、日本に伝わった文字を漢字と呼ぶなど、中国本土全体をさす名称ともなりました。
西は中央アジアの楼蘭(ろうらん)などオアシス都市も支配し、南部はベトナム北部に至る大帝国を築きました。
漢の領域 首都「長安」の頃の漢王朝と支流国(出典:Wikipedia)
❷ 楽浪郡(らくろうぐん)
漢の郡県制のもとで、前108年に朝鮮半島北部に設置された楽浪郡は漢の植民地とも言えます。25の県を抱え、「漢書」地理志によると6万数千戸、40万人以上が住む地域です。
現在の北朝鮮の首都、平壌(ピョンヤン)あたりに中心都市があり、東方における中国の文明の出先機関として、朝鮮や日本に中国の文明を伝える窓口となりました。
大量の木製品や漆器(しっき)が発掘され、銅鏡も発掘されています。日本の弥生時代には、壱岐(いき=現在の長崎県北部)や出雲(いずも=現在の島根県東部)との交流がありました。
3世紀、朝鮮半島北部に楽浪郡(出典:Wikipedia)
❸ 紙
「紙」は後漢の蔡倫(さいりん)が発明改良しました。
紙の発明は羅針盤、火薬、活字印刷とならぶ中国の四大発明の一つです。1986年に甘粛省の漢墓から前漢時代の初期の紙が出土されています。
「地図が書かれており、薄くて柔らかく、表面は平らでつやがあり、当時の製紙技術が相当な水準に達していたことが分かる。」(出典:「中国の歴史入門」明石書店)とあります。
中国、放馬灘で発掘された初期の紙の断片。地図が描かれているとされる。(出典:Wikipedia)
実用的な紙の作り方が広く知られたのは、後漢の宦官(かんがん)であった蔡倫(さいりん)が発明し改良してからです。
当時使われていた、木や竹を短冊状にした木簡・竹簡などはかさばり、絹布は高価でした。安くて使いやすい紙が求められていたのです。
7世紀ごろ、中国から朝鮮をへて日本に伝わった紙は、コウゾ、ミツマタを原料とする「和紙」として、今日も大切に作られています。
現代の越前和紙。流し漉きの様子(出典:Wikipedia)
中国の絹をローマ帝国に運ぶシルクロードが開通!インドからは仏教が伝わる。
( )のことばを答えてみよう!
- silk。蚕が出す生糸を編んで作る高価な布です。肌触りが良い。
- 日本語では「絹の道」、英語をカタカナで書くと?
❶ 絹
古来より使われてきた布の代表的なものは、羊の毛を編んだ毛織物、畑で栽培した綿花を糸にして編んだ綿織物、麻を編んだ夏も涼しい麻布、そして、蚕を飼ってさなぎになるときに体に巻きつけた生糸を編んで作った絹織物です。
中国で作られた絹がローマ帝国に運ばれ、貝の染料で染められた紫布は最高級品として皇帝がまといました。やがて蚕の飼育と絹布つくりは日本に伝わり、江戸時代の鎖国が終わって外国貿易が盛んになった時期、日本の最も重要な輸出品となりました。
今も、絹(シルク)は人気です。動物性の繊維なので、肌に優しく親しみ、高級なネッカチーフやパジャマもありますね。
❷ シルクロード/Silk Road /絹の道
ユーラシア大陸の東西を結ぶ「オアシスの道」を中心とする交通ネットワークをシルクロード(絹の道)といいます。
漢の時代に始まった東西交易はのちの隋・唐の時代にも発展し、中国の生糸や絹を西方にもたらし、西方からは馬やガラスやぶどうなどの文物のほか、仏教やキリスト教が東伝するルートともなりました。
シルクロードの主な道すじ(出典:Wikipedia)
シルクロードはどんなコースを辿ったのだろうか?
漢をはじめとする中国と、ローマ帝国をはじめとする地中海世界の国々とのこの通商路には大きく三つのルートがあります。
①草原の道
これは、北方の草原(ステップ)地帯を通る道です。
ユーラシア大陸の北緯50度あたりに広がるステップ地帯を通る道で、あまり高い山はありません。東アジアからカスピ海、黒海までの広い範囲に広がり、トルコ系の遊牧民族が古くから移動するルートとして利用し、交易の中継をしてきた道です。
シルクロードを通るラクダの隊商(出典:Wikipedia)
②オアシスの道
狭義で「シルクロード(絹の道)」というと、この道のことです。オアシス都市を結んで乾燥地帯を通る、最も古くから利用されていました。
中国からローマへは絹、アルタイ山脈から中国へは金が重要な交易品となっており「黄金の道」とも呼ばれていました。その一部は2014年に初めて「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録されました。
孫悟空が活躍する「西遊記」の物語に出てくるお師匠さん、三蔵法師のモデルとなったのが、7世紀の唐の時代の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)です。
彼はインドから経典や仏像をこのルートを通って持ち帰りました。13世紀に元の都を訪れたマルコ・ポーロは、このルートをたどって敦煌(とんこう)に達しました。
玄奘三蔵像(東京国立博物館蔵 鎌倉時代 重文)(出典:Wikipedia)
③海の道
中国の南から海に乗り出し、東シナ海、南シナ海、インド洋を経てインド南端へ、さらにアラビア半島へと至る海路を海の道といいます。
コーヒーブレイク「劉邦の仁徳と法三章」
司馬遼太郎の小説「項羽と劉邦」(新潮文庫)には、「勇猛無比で行く所敵なしの項羽。戦さべただがその仁徳(他者を愛しむ品性)で将に恵まれた劉邦。いずれが天下を制するか?」との解説があります。
漢王朝の開祖「劉邦(りゅうほう)」(出典:Wikipedia)
ついには項羽が地盤であった楚(そ)の歌に囲まれて「楚人は漢に降伏した」と、四面楚歌(しめんそか)を嘆いた話も有名ですね。
秦を滅ぼした後、劉邦は苛酷な秦の法を廃止して、今後は「人を殺したもの、傷つけたもの、および盗みをしたもの」のみを罰すると宣言しました。これを「法三章」といいます。
のちには時勢に応じた法を付け加えていきましたが、公正で適正な罰則基準がいつの時代も求められていたことがわかります。
コーヒーブレイクのバックミュージックに、團伊玖磨さん作曲の交響組曲「シルクロード」、久保田早紀さんの歌うシルクロードのテーマ曲「異邦人」はいかがですか?
次回の歴史クイズ→第7章Lesson3
※順番に読み進めると知識が深まります。
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