前回の歴史クイズ(復習)→第4章Lesson3
ローマ帝国は、ポエニ戦争で地中海を支配し、大陸に勢力を広げて重い税をとり、戦争捕虜(ほりょ)は奴隷として大農場(ラティフンディム)で働かせました。
ローマ軍の中核であった中小農民は没落し、失業者としてローマに流れ込みます。民会の構成員であった彼らに、皇帝は「パンとサーカス」つまり食料と娯楽を提供し、その支持を得ようとしました。
ポエニ戦争と、「ローマの平和」の裏面である中小農民の没落とスパルタクスの反乱から、ローマ社会の問題点を見て行きましょう。
【第4章Lesson4】中学歴史要点クイズ問題スタートです!
目次
ポエニ戦争に勝ちローマ帝国が地中海を支配!奴隷を使う大農場経営が広がる。
前264年にはじまった第1次( ① )戦争でローマが勝利し、地中海地域を支配します。多くの戦争捕虜はローマに連れ帰り、ぶどうやオリーブ・小麦などの大農場で( ② )として働かせ、裕福な土地所有者は、農産物を安く大量に売るようになりました。
( )のことばを答えてみよう!
- ◯◯◯戦争。ローマとカルタゴとのどちらが地中海を支配するかで争った戦争です。ローマ軍の使っていたラテン語でフェニキア人(カルタゴ人たちの民族)のことです。1文字違いのポエム(詩)はまったく関係なし。
- この時代は、大農場をつくるにも◯◯を必要としました。戦争捕虜となった者や、借金が返せず土地を手放して◯◯になった者がいました。ひらがな3文字でもOKです。
❶ ポエニ戦争
ポエニ戦争とは、共和政ローマとカルタゴとの間で地中海の覇権(はけん)をかけて争われた戦争です。前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から始まった第一次ポエニ戦争。前219年にカルタゴの勇将ハンニバルが5万の兵と37頭の象を引き連れてアルプス山脈を越え、イタリアに侵入した第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争ともいいます)。
そして、前146年の第三次ポエニ戦争では、ローマ軍はカルタゴに攻め入り、住民のほとんどを殺すか奴隷にし、700年以上繁栄していた国の首都カルタゴの地を塩で埋めつくして不毛の土地にしました。
カルタゴが滅亡し、ローマが地中海の覇権をにぎるまでの3度にわたる戦争をポエニ戦争とよびます。
のち、「ローマ世界」の基礎を築いたユリウス・カエサルは、北アフリカのカルタゴやギリシャのコリントを復興させ、活用しました。
(画像出典:Wikipedia)
❷ 奴隷(どれい)
古代ローマでは、政治の実権をもつ元老院のメンバーも無給の名誉ある地位であり、「報酬をもらって働くことは卑しいことだ」とのローマ市民の考え方がありました。
初期の奴隷は「ファミリア(家族のように親しい)」とよばれ、家族の一員として主人とともに農地で働き、家で雑役をおこなうなど家父長的奴隷といえるものでした。
奴隷は、家事・育児から、あらゆる仕事を受けもち、主人の財産管理や家庭教師(特にギリシャ出身の教師)などの奴隷は高い地位を与えられていました。
しかし、奴隷は主人の所有物であり、売買され、生殺与奪の権利も主人がもっています。ローマ市民である農民が貧困化すると負債のために奴隷に売られることが増えはじめ、前326年には、ローマ市民が負債によって奴隷となることが禁止されました。
イタリア半島だけでなく、戦争によってローマの領土・属州が拡大することで元老院議員の貴族や騎士たちは大土地所有を増やし、戦争捕虜や征服した部族を大量に「ものを言う道具」奴隷として安く買い入れ、厳しく酷使しました。
ローマでは、主要な生産部門である農業・牧畜・鉱業・手工業などあらゆる部門で、大規模な奴隷使用が行われました。
とりわけ、公設の鉱山などで働く奴隷は鎖につながれ、体に焼印を押され、過酷な状況に置かれている者がたくさんありました。
(古代ローマの奴隷 出典:Wikipedia)
「パンとサーカス」を与える皇帝!スパルタクスの反乱はなぜ?
前73年、剣闘士奴隷( ② )の反乱がおこります。自由を求める奴隷や、ローマの支配に反対する住民の反乱は、たびたびありました。1世紀には( ③ )教が起こります。
( )のことばを答えてみよう!
- 「食料と娯楽」のことです。具体的なことばで簡単に言うと何でしょうか?食料と言えば、まずは主食の◯◯。娯楽となる見世物と言えばハラハラドキドキする◯ー◯◯でしょう。
- スパルタとは全く違います。スパルタ◯◯という人名で、自由を求めた剣闘士奴隷でした。クスクス笑ってはいけません!
- イエスをキリスト(救い主メシア)と信じる宗教です。初めは迫害されましたが、やがてローマ帝国の国教となっていきました。
❶ パンとサーカス
ローマ帝国の領土が広がると、支配した属州(ぞくしゅう)での大農場経営(ラティフンディウム)が盛んになり、厳しい奴隷の労働によって生産した食糧や金品が、ローマ皇帝や貴族の富裕層に入ってきます。
中小農民はローマ市民であり、戦時には武装してローマ軍の中核部隊となりました。しかし、軍務から帰ると農地は荒れ果て、しかも、大農場経営で作られた安い農産物が大量に生産されたので中小農民は没落します。
失業者となった農民は大都市ローマに流れ込みました。彼らは民会での投票権をもっており、貴族たちが執政官や、軍や属州の長官となるためには、彼らの一票が必要でした。
皇帝も、民会の構成員であるローマ市民に、「パンとサーカス」を提供しました。小麦法が制定され、貧民への小麦の無料配布を多い時は30万人以上におこない、5万人の観客を入れることのできる闘技場コロッセウムで、剣闘士と猛獣の戦いなどの見せ物を無料で提供しました。
これが「パンとサーカス」つまり、彼らに食事と娯楽を与えて支持を得る政策でした。
❷ スパルタクスの反乱
ローマで最初に剣闘士奴隷の試合が行われた前264年は、北アフリカにあるカルタゴとの第1次ポエニ戦争の始まった年でした。
ローマ市民である中小農民が民会の構成員であり、戦時には武装してローマ軍の中心部隊となります。ローマ帝国が、地中海を支配する大帝国となっていったこの時代、戦争捕虜から特に反抗的な奴隷が懲罰的に剣闘士にされ、軍務につくローマ市民の見せ物として、殺しあいをさせられたのです。
コロッセウムを設立した皇帝は100日間にわたり、人間と格闘した猛獣5千頭を1日で殺したり、水を入れた湖にして3千人の剣闘士による模擬海戦などを提供します。
(剣闘士のモザイク画 出典:Wikipedia)
紀元前73年に起こったスパルタクスの反乱は、「ものをいう道具」として人権もなく、過酷な扱いを受けていた奴隷の3度目の大規模な反乱でした。
だが、全力で攻撃をしてきたローマ軍と激烈な戦いの末、スパルタクスは戦場に倒れ、アッピア街道には六千人の奴隷が十字架にかけられました。
当時、イタリアには150万人の奴隷がいましたが、そのうち20万人が参加したのがスパルタクスの反乱です。
この影響は大きく、奴隷の扱いを緩やかにするとともに、一方では、元老院の支配する共和制ローマから、より強力な支配権をもつローマ帝国へと進むことになりました。
それは、押さえ込まれた奴隷や下層民の中に、原始キリスト教の広がる素地を生み出すものであったといえます。
第三次奴隷戦争ともいう「スパルタクスの反乱」は何だったのか?
紀元前73年、スパルタクスは70名の剣闘士奴隷とともに南イタリアにあるカプアの剣闘士養成所を脱出し、ヴェスヴィウス山にこもり、派遣されてきた3000名のローマ軍の背後を急襲して武器を奪い、敗走させました。行く先々の大農場などでは参加する奴隷が増え、ローマ軍をしばしば打ち破り、半年後には7万の軍勢となります。
(剣闘士たちが立て籠もったヴェスヴィウス山:Wikipedia)
奴隷軍は、イタリア半島南端のトウリィで冬営し、技術をもつ奴隷たちで武器工場も作り、軍制を整えながら、今後どうするかを論議しました。
スパルタクスは、出身地のトラキア(ギリシャの東)でもローマへの抵抗運動が起きていることや、シチリア島や西アジアでの反ローマの動きなどの情報を海賊からも得るとともに、本来のローマ軍の強さを考え、そして、何よりも自分たちの願いは何なのか、今、奴隷から解放された永続的な自由を獲得するには、どうすればいいか、ということを論議し合い、戦いの目的は、それぞれが自分の故郷に戻り、自由な民として生きることにある、と定めました。
のち18世紀、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールはスパルタクスの反乱を不当な抑圧者に対する武力闘争であったとして、「歴史上唯一の正しい戦争であった」と評価しています。
前135年と前104年の奴隷の反乱は、2回ともシチリア島で起こり、奴隷王を建ててシチリアの権力を握った時期もありましたが、第三次奴隷戦争であるスパルタクスの反乱はイタリア本国での反乱でした。
ローマの元老院ら支配層の持つ大農場の作物が奪われ、奴隷が次々逃亡し、討伐に向かったローマ軍が相次いで敗れる中で、今までは、「奴隷の反乱に過ぎない」とあなどっていたローマの元老院も、最も大きな戦いとしてローマ軍の全力をあげ、二人の執政官と2万4千人の軍団を出撃させました。
スパルタクスの反乱の展開と、その後の影響を調べてみよう
アルプス山脈越えをめざした奴隷軍
スパルタクスの率いる奴隷軍は、アルプス山脈を超えてイタリアを脱出し、それぞれの故郷へ自由な民として帰ることを目的とし、北上をはじめました。
2万人もの犠牲を出しながらも、ローマ軍を正面から突破した奴隷軍はついに南端のトウリィから1200kmを走破してアルプスの麓に到達しました。
人数は12万人となっていました。だが、ローマ軍との戦いと準備に手間どり、北部イタリアは雨期にはいる九月を迎えようとしていました。この時期、アルプス山脈では雪が降り始め、十月には猛烈な吹雪となります。アルプス越えはできなくなりました。
シチリア半島への脱出をめざす
奴隷軍は、再び、南イタリアへ戻りはじめます。中部イタリアのピケヌム地方で、待ち受けていたローマ軍を大敗させ、冬の厳しい900kmの行進を続けて12月にイタリア半島のつま先にあるレギウムに到着し、海路シリチア島へ脱出しようとします。
シチリア島は、かつて2度の奴隷の反乱が成功して一時期支配した土地でした。敗退の続くローマ軍は、スパルタクスに講和条約の締結を提案しつつ、船の提供を契約した海賊をとりやめさせ、その後、クラッススの率いるローマ軍は、スパルタクス率いる奴隷軍との激烈な戦闘をして打ち破り、前73年〜前71年までの3年間にわたる戦いは終結しました。
第三次奴隷戦争とローマ社会への影響
当時、イタリアには150万人の奴隷がいましたが、そのうち20万人が参加したのがスパルタクスの反乱です。この影響は大きく、奴隷所有者の中には、監督を強化する一方で、財産の一部を与えて、家族をもつことを認め、労働意欲を高めようとしました。
また、大農場経営(ラティフンディウム)の所有者のなかには、農業奴隷を減らし、土地を失った自由民と契約を結んで小作農(コロヌス)を増やしていくという動きも出始めます。
だが一方では、元老院の支配する共和制ローマから、より強力な支配権をもつローマ帝国へと時代は進みました。それは、押さえ込まれた奴隷や下層民の中に、原始キリスト教の広がる素地を生み出すものであったといえます。
*映画「スパルタカス」(1960年制作、 監督:スタンリー・キューブリック、主演:カーク・ダグラス)
コーヒーブレイク:ハンニバルの戦いと象
第二次ポエニ戦争で、カルタゴの勇将ハンニバルは5万の兵と37頭の戦象を連れ、アルプス山脈の3,000mの山々を越えてイタリアへ進軍しました。イタリアに到達できた象は3頭だったといいます。ハンニバル軍はローマを脅かし、14年間イタリア半島にとどまり、戦いを続けました。
動物園で見る象は草を食べ、おとなしい目をしていますね。これが体がゴツい、ということで戦象として用いられました。前46年、タプススの戦いでは、ユリウス・カエサル率いる軍団は、象の突撃を回避して、戦象の足を斧でなぎ払いました。戦象はあえなく無力化し、以後、象は戦闘には使われなくなりました。
ちょっと、コーヒーが苦くなるお話でしたね。
次回の歴史クイズ→第4章Lesson5
※順番に読み進めると知識が深まります。
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